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今日は、ラムがおいしいに違いない。

掲題どおり。
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かまくら

「いざかまくら」と聞いて、外出していた人が早く暖をとりたい事であると言われても、それをそのまま信じるほど夢見がちではないが、実はその意味。

特に由来や背景はほとんど知らない。

知らないといえば、ただいまボケたかまくらについてもよく知らず、入った事もなく、ちゃんと暖がとれるのかという事もわからず。

こうわからない事だらけでは、もうなんでかまくらの話題を持ってきたのかと考えてみると、理由はなくただメモに「いざかまくら」と書いてあっただけで、これは考えてみるとブログのネタにすることではなく、何か急ぎの用のメモだったのではないかと余計な心配をも生み出させるかまくらというのは、そういえば大仏でおなじみなんでしたっけ。

浅こより その2

【あらすじ】

くしゃみって、嫌われがち。
=====
昔読んだ本に、こんな一節があった。

「生まれたばかりの雛はか弱く、例えば巣のある木の下にいる人がくしゃみをしただけで、そのショックで死んでしまうこともある」

口の周りがびちゃびちゃになる。
あるいはびちゃびちゃを周りに飛ばす。
適度な湿度は必要だが、あまりにびちゃびちゃだと悪い菌が繁殖しやすくなるという前前前世からの経験則。
もちろんびちゃびちゃの中に、すでにウイルスがいたりする。
あるいはいるかどうかの判断が難しい、他人のびちゃびちゃ。

その辺が、くしゃみが嫌われる理由の最たるもののような気がする。

そして、冒頭の話。
故意ではないにしても、その無差別な破壊力には、子供の残酷さ的なものを感じずにはいられない。
「出ることを制御できない、生理現象」という点も、嫌われる要因にあるそうだ。

一方、「くしゃみのとき、すごい表情になる」という点も見逃せない。
言い換えると、ぶさいくになる。

もちろん本来は「ぶさいくって、嫌われがち」を考えなければならないのだが、めんどうくさく、例外も多そうなのでここでは割愛。
ぶさいくにトランスフォームするのも嫌なのだ、くしゃみによって。


飽きて20分くらい経つので、見方を変えてみよう。

くしゃみ 闇属性 威力20
くしゃみ 聖属性 威力20

あるゲームでこういうやつがあったら、どうなるだろう。

「くしゃみ 闇属性 威力20」は間違いなく巨大な魔王の序盤の攻撃で、正しく表記するとこうなる。
「くしゃみ 闇属性 威力20 毒付与」

一方、「くしゃみ 聖属性 威力20」の方は、これまた間違いなく女性神官の使用回数制限のない体力回復能力で、正しく表記するとこうなる。
「くしゃみ 聖属性 威力20 射程1」


こう考えると、少なくとも他人に対してだけは、くしゃみというのは場合によってはいいことに扱われる可能性があることが分かる。
そして、この詳細を考える場合、先ほど割愛したところが重要だろう。

しかし残念、割愛してしまった。
覆水盆に返らず。
なんとかmilkなんとか。
一事不再理。

うーん残念。

猫を洗う

我が家にはかなり猫がいるため、彼らの汚れ具合を把握し続けることは難しい。
しかし、彼らが好きな、例えばソファの端や、座布団は、もう土なのか毛なのか、汚い。

ずいぶん昔、「みみ」と「もも」を風呂に入れたことがあったが、このときは穴という穴から全部。
何かとは言わないが出てしまった。

怖かったのだろう。
それから数日は僕に寄り付かなかったくらいだ。

そんなこともあったのだが、とにかく誰かは汚い。
それが1匹なのか全員なのかは分からないが、とにかく手ごろに見つかった2匹を洗うことにした。


【検体:きき オス】
我が家では「メスライオン」と呼ばれている、大型のイエネコだが、気が小さい。
初のお風呂では特記することもなくただ怯え、風呂の端で湯をかけられるその様は、拾われたころを思い出しているのだろうか。

【検体:ここ オス】
胴長だが大胆不敵。元気な彼をもってしても初風呂は恐ろしいらしく、ただ鳴くばかり。
濡れているのがやはり嫌なのか。タオルで拭かれても体をなめ続けるその様は、アイスキャンデーだったころを思い出しているのだろうか。


猫の風呂入れは1日2匹までである。
さもないと腰に来る。

腰をとんとんたたきながら、もうあの、お気に入りのソファだか座布団に陣取る「きき、ここ」を眺める。
こうして、ソファや座布団の汚れは少し猫に移るだろう。

ソファにも座らず座布団にあぐらをかかずに突っ立っているその様は、まだ何匹も洗うべき猫がいることを思い出している。

デビル

結構昔から気にしていることに「タスマニアデビルは言うほどデビルではないのではないか」というものがある。

「タスマニアデビル」は確か、オーストラリアだかニュージーランド付近の「タスマニア島」に生息する有袋類で、ちょっと大きい猫くらいの大きさ。
しかし、体表の黒い毛と一部入るハイライトの白線は、ちょうどツキノワグマっぽい。
テレビではともかく獰猛な感じがよく出ていて、調べてみると噛む力も相当すごいらしい。

大人しくしていればかわいいのに、という幼馴染が関与するアニメでありそうな設定を地で行く。

それにしても「デビル」はないんじゃないだろうか。
幼心にそう思っていた。

デビルってもう、悪の権化みたいなイメージがあって、もちろんある部分が人間とは相いれないのだとしても、デビル呼ばわりはどうなんだ。
どうにか「デビル」のいいところを見繕っている「デビルマン」「ひょうきん族のブラックデビル」をもってしても、どうにもデビルは悪すぎる。


しかし、考え方を変えると、実は「デビル」はそれほど悪い意味じゃない、という可能性もある。
せいぜい「黒いやつ」とか「ちょいちょい見かける」くらいの意味だったのではないだろうか、少なくとも「タスマニアデビル」発見当時。

それなら仕方ない。
「タスマニアでちょいちょい見かける」。
その通りだ。


それにしても、今モンスターズユニバーシティがテレビでやっているのだが、「マイクのそら豆感」と言ったら、なんだ。
完全にそら豆じゃないか。

そうなると、デビルとか豆とか出てきたからどうしても「デビルをターゲットにした節分」を考えなくてはならない。
「ならない」ってこともないですが。

目は口ほどに

ものを言う、っていうことわざがある。
これがよくあてはまるのは「犬猫」だろう。

まず、このことわざを数式で表すと、ものを言うことについては「目≧口」になり、犬猫は「口=0」だから、「目<0」にでもならない限り、必ず「目≧口」が成り立つ。
もう、このことわざの代名詞といっても過言ではない。
※ここでの0は、「ものを言うことがゼロ。あるいはものを言わない」ということになる。


今、「口≧口」が顔っぽいなと思ったが、それはさておき気になるのは「目<0」はどういったことなんだ、ということである。

申し訳ないのだが失礼を承知で言えば、視力が著しく低い場合や失明というものが浮かぶ。
だが、それは目の能力を視力としてとらえる場合で、一方でこのことわざは視力のことを言っているわけではない。

おそらく、形なのである。
目と、その周辺の様相、表情が「ものを言う」わけで、「目<0」は、「表情<ものを言わない」と言い換えられる。

さて、やっと「目<0」というものは、「ものを表現しようとしていない表情」で収まった、と考えるのはちと早い。
それでは「「表情=ものを言わない」であって、「表情<ものを言わない」ではない。

負の「ものを言う」は、日本語に直すとどうなるのか。

普通に考えると「ものを言ってもらう」になるか。

それは「ものを言ってもらいたそうな表情」ということで、それはいきなりありそうすぎる。
しかし再考してみると「それがもの言ってるじゃん」という気もし、もう全然わかんない。

「ものを言う」ことを出力と考えると、入力がそれにあたるか。

「ものを取り入れる表情」
「感化されやすい表情」
「師匠の講演を真剣に見つめるまなざし」




とりあえず、今回の内容はばかっぽい感じがいつもよりすごい。
疲れた。



ただ、メガネを普段かけている人の目が言っているのはわかりやすいから書いておく。

33だ。
33としか言っていない。





追記
このことわざって、「口よりも目の方がものを言う」ってわけでもないか。。。

だまし絵の悲劇

だまし絵は唐突である。

「はい。これまで、だまし絵の歴史についていろいろ考えてきました。それでは実際に見てみましょう」

このような、だまし絵にとって幸運な流れはなかなかお目にかかれない。

「この中に猫は何匹隠れているでしょうか」
いきなりこう来る。
それまで猫なんか探していなかったのに。

あるいはこう来る。
「この絵の人は若い女性に見えますか、それとも老婆に見えますか」
それまで中野のおいしいラーメン特集だったのに。

そして、だまし絵は沈黙である。

「よく見たら骸骨でした」
「よく見たら別の人物が描かれていました」
「よく見たらありえない交差をしていました」

だまし絵は絵だから動く能力に乏しく、いわば出落ちなところがある。
その瞬間から、結果が見えている状態なのだが、その結果は基本的に隠れている。
そしてその隠れた結果を探す。

この一連の流れは、かなり静かだ。

「どうだ?隠れていただろう!?」

だまし絵としてはそう言いたいのかもしれないが、そうであったとしてもこちらは「うん、そうだね」以上のものはなく、会話が成り立ちにくい。

「うっひゃあーだまされたー!!やったー!!」
だまし絵冥利に尽きるだろうこのようなセリフを吐く人を、僕は見たことがない。

最後に、だまし絵というものは「生まれが卑しい」。
もちろん、たまたま描いていた絵の中に、他の人の顔のように見える部分ができました。

ありえなくはないだろうが、大抵のだまし絵は、書かれているときから、もうだます気で書かれている。
生まれながらにしての詐欺師である。


なぜいきなりだまし絵のことを考えてしまったのかというと、「だまし絵の芸術的価値」が気になったからだ。
おそらく、芸術というものに、生まれの質は影響しないだろう。
僕はよく知らないが、だまし絵に属するような絵でも、芸術的価値が見いだされることも存分にあるだろう。

しかしだまし絵からしてみれば、そんな価値はその存在を否定されるようなものかもしれない。

「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここがだましているところで。」

これではだまし絵がかわいそう。

そんなこんなで、だまし絵には芸術的価値は似合わない。
だが、これなら少しは救われるかも。

「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここが老婆ゆえの危うさのところで。」

イヤホンジャックについて

幸運にも携帯電話を落としたことはない。

だが、それを失った時のめんどくささはなんとなくわかるため、ストラップをつけて首から吊り下げるようにしている。
これで落とさない。

しかし、不安の種はさらに上を行く予想を僕にさせ、すなわちストラップのリング金具部分、合わさっている部分から奇跡的に離脱。
落としてしまうかもしれない。

そこで僕は長さの短いイヤホンを購入し、音楽を聴く体で過ごすようにしている。
イヤホンが、ストラップと同じ安全性まで保持しているとは思わない。

ただ、ある程度は携帯電話落下の危険性を下げてくれるだろうし、もう落下させてしまった場合、「あれ、志ん生の落語が聞こえない」などの異常でそれを察知させてくれるかもしれない。

ところで、今カバンの中を見てみたら、外れたイヤホンが入っている。
携帯電話がない。
家の充電器につけっぱなしだ。

最初に「携帯電話を落としたことがない」としたが、危ないところは何度もあったのかもしれない。
気をつけなければ。

それにしても、カバンの中のイヤホン。
昨今、最新のやつはイヤホンジャックがなくなるかどうかの話題があるようだ。

これでiphoneの落とし物率がダウンするのなら、新しいイヤホン差し込みのところが固いと言え、今のイヤホンは3DS用になる。
一方、アップするのなら、差し込みのところが緩い。

アダプタを介して今のイヤホンを使用しても、結局アダプタと携帯間が緩いため、緩い以上の性能アップは別のルートを考えるしかない。
そしてイヤホンは3DS用になり、差し込みが緩いのは、スタンダードになる。

どちらにせよ、今のイヤホンは3DS用になるが、それは悪いことではないし、まだわからない。
買い替える予定がないから。

背比べ

近所で「たけのこの里」と「きのこの山」(おなじみサイズ箱のやつ)が、100円で売られることがあるため、両方を比較しやすい環境に、僕は住んでいる。

で、知ったことには「たけのこの里」のほうが少し内容量が少ない、ということで、たぶん知っている人は知っているだろう。
なんせ「たけのこの里」と「きのこの山」の話なわけであるから、それは「盛り上がる」。

たけのこ、きのこだけに。

ともかく、内容量は少しきのこの山に分があるんである。

これを「きのこの山の強み」とみるのか、「たけのこの里の高価さ」とみるのかは人によるだろう。

僕はどちらも好きだから、ありがちだが甲乙つけがたいところ。
ただ、「きのこの山」「たけのこの里」どちらも、開封後数分ですべて平らげてしまう。
それは明記しておこうと思う。




なお、私的には以下のようなメリット、デメリットがこれらのお菓子には存在する。

■たけのこの里
・メリット:おいしい、クッキー部分が粉ふいてて面白い
・デメリット:チョコとクッキー部分が分離しにくい

■きのこの山
・メリット:おいしい、チョコ部分を取り除いたクッキー(ビスケット?)が大腿骨みたいで楽しい
・デメリット:割れて石づきだけ、傘だけになっているものがある(ただし、これは最後にひときのこと複数の石づきを食べることによる「チョコ割合の低いきのこの山」という別風味を楽しむ」メリットでもある)

親ら

「一親等」というように使う「親等」は、親族の遠近な関係を数値で表しているもので、ちょいちょい目にする。

確か子供から見て親が、親から見て子供が一親等なのだが、そうなると気になるのが「零親等」の存在で、一般的にはそんな言葉はないようだ。
しかし、むりくり何かを表現するものだとして考えると、普通は「自分自身」だと考えるんじゃないだろうか。

ところがサイトによっては、こう来る。

「配偶者のこと」

もちろん「もし意味を持たせるなら」という前提ではあるが、どうも「親等」というものを「自分以外の親族のこと」として考えたとき、「自分ではないが一親等よりも近い存在」として配偶者が最適ではないか。
そういうことらしい。

遊びの範疇であれ、零親等というものが自分自身のことと勝手に考えていた僕にとって、配偶者もその権利があるかも、という考え方は衝撃だった。

一心同体。
結婚式でよく聞くこの言葉どおりじゃないか。


で、この流れになるともちろん「3/5親等、5/3親等」や「マイナス一親等」。
虚数の「i親等」などの夢が広がってくる。

「マイナス一親等」なんて星みたいだ。


なんとなくそれらについての僕の見解は、以下だ。

・3/5親等:子供から見て、子離れできていない親。親から見て、親孝行な子供。
・5/3親等:子供から見て、よく二人で旅行に行く親。親から見て、あまり似ていないなと思う子供。
・マイナス一親等:子供から見て、背後霊。親から見て、背後霊。
・虚数i親等:子供から見て、二乗すると背後霊になる親。親から見て、二乗すると背後霊になる子供。


だってさ!!。
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