おまえ、まるかじり3

【昨日からの続き】
「魚を頭から丸呑み、し途中の魚の化石」が、あったんですよ。

=====
「魚を頭から丸呑み、し途中の魚の化石」は全身が綺麗に残っており、まるで魚拓のようだった。

しかし、よく分からない点がある。
それは、実は「それで一匹の魚」という可能性はなかったか、というところだ。

骨格の解析などで「ほぼ間違いなく丸呑みで、捕食者と餌の二匹分だ」となるのかもしれないが、実はそう考えるでもなく「丸呑み中」と学者は考えてしまってはいないだろうか(遺伝子が残っていれば断言できるかも)。


おそらく、前後どちらにも泳ぐことのできる、実験的な、ベンチャー企業的な。

確か、カンブリア紀と呼ばれる期間では今日では見られないような、変な外見の生き物がいたらしい。
多分、魚はカンブリア紀よりもだいぶ後に登場しているのでそのときではないだろうが、魚類の誕生の中でもいなかったか、おためしが。

おためしで「前後に泳ぐため、こんなことになりました」というような、現在の人が見たら「丸呑みし途中」と判断してしまう魚類がいたかもしれないじゃないか。


あるいは「タイノエ」的な、一見捕食されているように見える「丸呑みされ側」が帰省中だったのではないか。
ごめん寄生虫。
そんな可能性も、化石の情報だけではあり得そうだ。


そうなるともう、何もかも疑わしくなってくる。
そもそも化石は、本当にその年代のものなのだろうか。

贋作としての陶器は、箔をつける(時代をつける?)ため、地面に埋めたりすることもあったらしい。
スーパーの干物を地面に埋めて、その上にメネデールを刺しておくと放射性炭素の半減期が狂ったりしないか。

実はカンブリア紀では高度な文明がすでに存在していて、我々が「魚を頭から丸呑み、し途中の魚の化石」だと判断したのは当時としての「ATMとカード」だったりしないか。


どうなんだそこへん。
こりゃあ宇宙人が情報操作のために化石を捏造している説も、ありえますな!!

おまえ、まるかじり2

【昨日からの続き】
「魚を頭から丸呑み、し途中の魚の化石」が、あったんですよ。

=====
で、気になったこと。



椎名林檎の歌で、写真を撮られなくないという旨の歌詞があった気がする。
それは写真としてその場面が残されることで、それと今後の自分が比較できてしまう。
その時の自分は明らかに写真の時より古く年老いており、それが否応なく証明されることがいやだ、という心情。

ということで、くだんの化石は大変なことになっている。
赤裸々である。

埋まっていればまだよかったのだが、発掘されてしまった。
最初から色あせた感じだっただろうが、ともかく何年も公開されてしまっている。

食事というのは、以前触れたこともあるが「見られると恥ずかしい」と感じる人は結構多いらしい。
それは人間の行動決定のかなり根本的な要素であるからで、確かにものを食べるということの構成をかいつまんでアナグラムってみると、もう何かほら、もうって感じのやつに置き換えられそうですらある。

「だえき」
「えんげ」

ほらもう。

そんなことになっちゃったかー、丸呑みし途中の魚。
唯一救いがあるとすれば、彼が年老いてしまったことを気にするものが一人もいないということだろうか。
が、化石のころからだと、だいぶ輪廻転生がはかどっているはずのため、今は人間でいるかもしれない。

その人は本当に、喉に魚の小骨が刺さってしまうことに困る人生であろう。
生まれながらに刺さっているっちゃあ刺さっているからである。

おまえ、まるかじり

「魚を頭から丸呑み、し途中の魚の化石」を何かの本で見たことがある。

言い方を変えると「口から魚の尻尾が出ている魚」になるわけだが、何もこんなタイミングで化石まで「持っていかれなくても」と思う。

確か化石というのは、かなり特別な状況でしか生み出されないものらしく、そんなレアケースの中で、丸呑みし途中という、魚の人生において短い時間が採用されてしまうとは。

もちろん僕が魚の生態を知らないだけで、結構な期間、魚を咥え続けているのかもしれないが。
どうであれ魚としても、どうせならもっとピシッとした状態で化石になりたかったことだろう。
丸呑みし側も、され側も。

おつまみ

なんと言うのか。
バーで出てくる棒状の、パスタを揚げたようなやつが好きだ。

あれはおつまみとしての位置付けなのだろう。
塩をあてて酒を飲むような感じを目指しているのか、やたら塩辛い。
あれが入っていたコップの中を見ると、いかに塩がぶっかけられていたかがよく分かる。

そして夕食を終え、かなり腹一杯でも食べられる、質量ゼロ感。
もちろん、あれがいくらか細いかといっても、こねてまとめるとチョコボールくらいの「塩玉」になるだろうが、逆を言えばその塩玉を30本に分けました。

ということで、晴れて人間の感覚ではほぼ認識できない質量になるのである。
仙人があれを食っても、仙人の資格を害さない。

ところで、あれは結局なんて名前なのだろうか。
このままだと、ヴォルデモートと同義だ。

ぬりかべについて

この間ふと思い出したことに「ぬりかべは1つ目の時がある」というのがあった。

ぬりかべはゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪で、コンクリートのかべに華奢な手足が付いている、ほぼかべ。
手には大工さんがぬりぬりする時に使うペラペラアイロンみたいなものを持っていることがあり、そして大概、眠たげな目が2つ、ついている。

ところが、以前見た妖怪大辞典的な、あるいは漫画では、ぬりかべの目は中央に1つなのだった。
それはあまり見たことのないぬりかべだった。


ぬりかべは1つ目と2つ目、二種類存在するのだろうか。
それとも、1つ目の方はキュビズムによる画法を用いれば2つ目になる、言い換えれば角度的に1つ目に見えてしまった結果なのだろうか。
ぬりかべほどのシンプルさでは、角度どうこうでそうなるとも思えないが、それよりも「1つ目のぬりかべ」は気持ち悪い。

そもそも妖怪なのだが、鬼太郎影響か、どちらかというとぬりかべは優しいカテゴリに入る気がする。
しかし1つ目だとやはり怖い感じが出る。

また、1つ目のぬりかべは、人間主観的には「2つ目の方よりも属性が多い」と言える。
めがねと三つ編みコンボの委員長に、さらに博多弁が加わるように、ぬりかべでさらに1つ目。


ここで僕が心配になったのは、1つ目のぬりかべは、妖怪としてどう呼ばれるべきか、ということである。

もちろん普通に考えれば「1つ目ぬりかべ」なのだろうが、どちらの属性が強いのだろうか。


「いやーこないだ夜の道歩いていたら、1つ目の妖怪が出たんだよ。しかもそいつ、かべに手足が付いたような感じでさー」

「いやーこないだ夜の道歩いていたら、かべみたいな妖怪が出たんだよ。しかもそいつ、1つ目だったんだ」


よかった。
どちらかというの後者の方が一般的な気がして、先にかべの容姿に触れる。
すなわち、1つ目とはいえぬりかべはかべ属性の方が強い。

心配だった、1つ目のぬりかべが「1つ目」という名前になることが。
そんなことを聞いたら「いや1つ目も特徴的だけと、まずかべだろ」と文句が出てしまいそうだったから。
あくまで、1つ目はサブ属性だった。



しかし一方で気をつけねばならないのは、こう言った人もいるのではないかという点だ。

「いやーこないだ夜の道歩いていたら、アイロン持った妖怪が出たんだよ。」

かべ容姿も1つ目も超えるアイロン属性。
アイロニストって最近聞かないですよね。

4脚

最近は出ているのかは知らないが、アーマードコアというゲームが結構好きだった。
特に4脚というタイプで、その通り足が4本、かにみたいにある。

その見た目が、虫みたいでよろしい。

我が家に4脚がお客さんとして来るとしたら、どうスリッパを配置すればいいのか。

あるいは「ダーリンは70歳」みたいな語感の「お客さんは4脚」。
確か最近の漫画であったはず、ダーリンは70歳。

そういえば「お父さんは心配性」という漫画もあった。
この辺を混ぜてみると、こうなる。

<ありえそう>

お父さんは70歳
お客さんは70歳
ダーリンは心配性
お父さんは心配性
お客さんは心配性
ダーリンは70歳
お客さんは4脚
ダーリンは4脚
お父さんは4脚

<ありえなさそう>


ゴリラが握りこぶしを地面につけながら歩くさまを「ナックルウォーク」というらしい。
そうなると、お父さんがゴリラだとするとぎりぎり「お父さんは4脚」はそう突飛なことを言っている感じもしないのだが、一方で70歳のゴリラとなると、せっかく「ありえそう」上位だったのに厳しい。

4脚はゲームでも話のネタとしても一長一短だな、病んでいる私は思うのです。

ブックカバー

今読んでいる本が中途半端な大きさで、合うブックカバーがない。
ということで買いに行こうと思う。

手元にあるやつは文庫本サイズのものばかりで、それにしてもなぜ僕は読んでいる本を人に知られたくないのだろうか。
いや、ブックカバーというものがある以上、それはそういう秘密志向の人は多いことを示している。

以前も書いた気がするが、確かに変な挿絵があったりすると、恥ずかしい。
そのページは見られないように読み飛ばしがちなので結果、内容を全然知らない。

そこが歴史小説のクライマックスページなら、その結果を知らないことになるし、自己啓発本の太字ページだったら、その本の要約を逃していることになる。

名探偵コナンの人間のシルエットページなら、ああ何か黒の組織がやりましたかとなるし、方程式の解ページだったら、そもそも挿絵がない。


ただ、恥ずかしさゆえのみのブックカバーと考えると、実はそうではなく「保存や長持ちさせるため」の意味も、それにはありそう。

となると一番「ブックカバーが似合う」本は、「末代まで伝えたいエロい挿絵のある本」となる。
そうだったかー。


と、そんなことを考える前に、まずはブックカバー屋さんを探そうと思うのです。
一週間以内くらいに。

ラッキーパーソン

「ラッキーパーソンは自分自身がなっていいのか」というのは、誰に聞けばいいのだろうか。

ラッキーパーソンとは、テレビの占いで聞かれた言葉で、ラッキーアイテムなどの例を考えると、「会ったらラッキーが舞い込んでくる人」ということなのだろう。

「ラッキーパーソンは語学に長けた人」

ちょうどエスペラント語訳で困ってました、という人はともかく、ただその日の不運が決定した人にとっても、この語学に長けた人は幸せを与える存在なのである。


気になるのはこのとき、たまたま今日不運らしい人が、語学に自信があったらどうなのかという点。


「いやー、エスペラント語で書かれたメニューだったんだけど。読めてよかったわー」

これは自身ラッキーパーソンの効力なのだろうか、というと、何か違う気がする。
不幸が足らないのだろうか。

「いやー、落とし穴に落ちちゃって。エスペラント語で脱出方法書いてあってよかったわー」
何か違う。


「ラッキーパーソンは赤い靴の人」

「いやー、返り血浴びちゃったんだけど。靴が赤色でよかったわー」
物騒だ。


ラッキーパーソンが自身で担保できるかはわからないけど、もしラッキーパーソンたる要素を持てたなら、その日に会うおよそ1/12の人たちにラッキーになってもらえる。

そう考えると、自身もおのずと幸せって、なんて言うかこのレシートぱんぱん財布野郎が!!

竹馬の友

唐突に「竹馬の友」という言葉が浮かんだ。

小さい頃に遊んだ友達という意味だったと思う。

しかし気になったのは「竹馬」が複数人で遊ぶものかどうかという点だった。

けんか竹馬や、競争という遊びもできるだろうか。
しかしそれらの考えをもってしても、基本的に竹馬は一人一台だ。

竹馬一台に何人乗れるか。
バンブーダンス。

竹馬一台でもイケる遊びもありそうだが、もはや竹馬ではない。

「竹馬の友」

一台の竹馬を奪い合った仲というのも、大人になったらいい思い出だろう。


「お前んとこの吽形、ちゃんと高枝切りばさみと一緒に角に置いてあるよ」

ちゃんととはなんだ、ちゃんととは。

献身

今ちょうどテレビを見ていると、カツオが捌かれていた。

レポーターさんは「これ、何人前くらいになるんですか」と質問。
50人前くらい、刺身がとれるそうだ。

この情報は、もっぱら人間側の都合として有用だが、カツオとしてはどうとらえればいいのか。

「俺からは50人前の刺身がとれるのか」

このカツオが体格自慢だったり、宮沢賢治だったなら、心配の余地はないが、ともかく50人前のことがカツオの成仏に働いてくれたら、と思う。
リンク
最近のコメント
カテゴリー
月別アーカイブ