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豚足の鮮度

子どもたちが一般的なスーパーに対して重視している点は、おもちゃ菓子コーナーの品揃えなどではなく、実は「変な食材がどれほどあるか」なのである。

例えば鮮魚コーナーに「生きたどじょう」がときどきあるというだけで、子どもたちはそのスーパーに行くたび、鮮魚コーナーへ向かい、その確認を行うだろう。

もちろんそれは対象の生死が関係しているわけではなく、どちらかというと「これ食うか?」という興味によるところが大きい。



子供の頃、近所のスーパーに、イナゴの佃煮が入荷されていたことを思い出す。

あまりに平然と、ただ当たり前だが、田作りとかと同等に扱われていた。
しかも見た目は「田作り≒佃煮」なので、イナゴだと気づいたときは衝撃だった。

それからというもの、そこに行くたびに「イナゴの佃煮」があるかを確かめずにはいられなくなった。

買う勇気はない。
しかしそれを見るたびに「人間これ食うか?」という気分になったものだ。


誰しもそうだろうが、この傾向は大人になろうが少なからずある。


うわー豚足まるみえだよ。
爪の先がビニールやぶいちゃってるよ。

鳥が一羽丸ごと冷凍されているよ。
色のついた包装紙でコーティングされているけど、むしろそのいびつな形状がイメージを増させるよ。

もう、人間のある一部分みたいな形状のものがはみ出ちゃってる、貝だよ。
なんだかグロいよ。


こういったものは、怖いもの見たさとでもいうのか。
見るためにはるか遠方(例:野菜コーナー)から来る人もいる。


私達は、日ごろ既に整形されてしまっている食材しか触れていない。
この行動は、食材本来の形、すなわち狩猟成功直後に得られるべき姿を確認したいという本能を満たすための行動なのではないだろうか。

そしてその行動と現実の整形食材のあいだに「これ食うか?」感が存在している。
そんな気もするが、こんなことを言いたいブログではない。




結論
土のついた大根はいいが、土のついた豚足はいやだ。
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双眼鏡2

昨日からのつづき。

【あらすじ】
双眼鏡で何をのぞくといいか。
※異性関連ぬかし

=====
僕が双眼鏡を欲している理由が、お向かいにタカらしいものがいるらしいという曖昧な興味だが、それ以外のものを見てもいいんじゃないだろうか。



・事件の瞬間
ドラマである。
そう頻繁にあっては困るが、やはり「双眼鏡のぞきイメージと事件の瞬間」は定石であり、これからドラマティックな流れになることを予感させる。


・右のレンズにマヨネーズ、左のレンズにケチャップ
もうのぞいていないので恐縮なのだが、一応マックのポテト用。


・双眼鏡をのぞいている人の向いに立ち、逆から双眼鏡をのぞく
上記シチュエーションにて、向いでのぞいている人から相手の目の疾患が確認できることはよく知られている。
ちなみに猫の眼球をのぞいてみると血管とかが見えますな。


・アジト
双眼鏡を手に入れたなら、一回くらいはのぞいておきたいところだアジト。
問題は、近場に手ごろなアジトがあるかどうかだろう。


・秀才の答案用紙
カンニングである。
不正行為であるため、双眼鏡を用いるにあたっては「目頭を押さえる」「こめかみをマッサージする」感じで双眼鏡をのぞきたい。


・高級そうな店
入りたいのだが、高級そうなので下調べをしたい。
そんなときの双眼鏡である。
それ以外にも、やっかいな店員がいないか、新規の客でも冷たくあしらわないかなどを確認したいところ。


・視野の右下に、のぞいているものの戦闘力が、数値で表示される。
もうのぞくこととは関係ない。





関係ないということでもうひとつ。

双眼鏡を使用するということは五感のうち視覚のみを使用する、視覚のみを特化させていると思われる。


「私の話、ちゃんと聞いて!!」


ここで双眼鏡を手にされては、お前何考えてんだとなるし、言い方を変えれば、双眼鏡で何かをのぞいている人に対してそう言っても、絶対ちゃんと聞いてくれない。

むしろ他意などを模索する余裕もないと言えるため、例えばへそくりの場所を聞いてみると素直に答えてしまうかもしれない。

要は無防備になるわけで、その点クリーンな自白剤とも言えそうだが、そんな使い方を考慮するとなると、必然的に「集中してのぞきたくなる」ネタが必要になる。

それが今回の列挙には、ないねえ。





双眼鏡おわり。

双眼鏡

双眼鏡が欲しくなったのだが、双眼鏡の知識がない。

というのも、なんだか僕の部屋から外を眺めたその先。
50mくらい先の散立した樹木にタカ科の鳥が巣を作ったというのだ。

近所のおじさんから聞いた。

都心ではないと言えども、そんな森々していないところなのだが、そんな猛禽類がいるそうなんである。

そこで、せっかく真向かいなので、時たま観察してまおうというのが、双眼鏡どうこうの理由である。


ところで、双眼鏡となるとどうしても付きまとうのが「のぞき」的なマイナス面だ。

事実僕も猛禽類の新居狙いになるわけで、その点何らかの罪悪感がないわけでも、ない。


それに、「目のまわりにあとがつく」というマイナス面もある。

人によるのだろうか。
以前、野鳥観察という名目の遊び集まりがあったのだが、そこで使用していた双眼鏡は見づらく、そのせいでぐいぐい目にそれを押し当て観察をした。

その結果、目の周りに「ヤクルトの容器つけてたの?」と言われそうなくらい、立派なあとがついていた。


さらに、「双眼鏡で何かを見ている人は、どうもばかに見える」というマイナス面もあると思う。

僕のイメージでは、「双眼鏡をのぞいている人」は、薄笑いした表情か、口が半開きかの人しかいない。

どうにもうーん、な表情で、そんなに人に見せていいものではない。



現状、双眼鏡マイナスが多い。


出資できる金額から以上3マイナス分を引いたやつを、暇があったら買おうと思う。




次回
双眼鏡で何をのぞくといいのか。

血圧計

血圧計の、あの圧迫感が嫌いだ。

血圧を計るために必要な圧力なのだろうが、ちょっと強すぎる気がする。

あれは人の腕の太さなどが考慮された圧力になるのだろうか。
それとも一律なのだろうか。

場合によっては、腕の太い人なんかはもう血圧計との戦いみたいなことになってしまうのかもしれない。


お前のベルトが千切れるか、俺の腕がちぎれるか、だ。


今のは関係ないのだが、さて。

大型のスーパーや病院、薬局では、よくお試し血圧計が、もう客待ちしてる誰かみたいな佇まいをなしていることがある。


もう、幾人の腕枕で眠ってきたかな、私。


今のは関係ないのだが、その中に電池の切れかかったものがある。


聴いた話によると、その血圧計はやさしく腕を握ったあと、静かに事切れたそうである。

おとぎ話である。

神の神

トルネを買ったのだが、そのお手軽さに対してかなりいいような気がする。
ずいぶんとテレビ番組を録画する術がなかったので、なおさらだ。

あとは琴線に触れる番組がやるのを待つばかりである。


ところでトルネを買うにあたり、いろいろなサイトを参考にさせていただいた。

そのなかで興味深かったのが、トルネを神と表現したコメントだった。


前述したように、トルネはなんだか素敵な奴であり、その素敵さを神と称すべきだと考える人もいるだろう。

もちろん言葉の差はあれど、要は褒めているのである。


僕が気になったのは、「トルネが神だとしたら、それを接続するPS3は一体何なんだろう」ということだった。

これはなかなか考えさせられる。

というのも、これはすぐに「僕らにとってテレビとは何か」に派生するだろうし、それ当たり前のように眺める僕らは一体何なのだろうという、困った問題に発展するからである。

トルネが神マシンだとしたら、PS3はおそらくもう少しすごい人になるだろう。
ドラゴンボール的な、あれである。

しかし、これらに比べてテレビは、ちょっと比較できなくらいすごいような気がする。
昔から、カラー、次に薄型、さらに3Dと、やっぱりドラゴンボール的な、あれである。

こうなると、僕らの周りは大変な神様の数であり、八百万の神々というのもあながち数合ってんじゃね、の様相である。




ちょっとPS3の神は、熱を出しまくるので困るのだが。

俺の街

「あなたの街のおもしろスポット大募集」

こんな感じの何かが、あるでしょう?。
写真を送ってね、みたいな。

今日はいろんなものを大募集してみる。



?「あなたの街の忍者大募集」

まず最初に断らなくてはならないのは、この募集で送られたモノは全て忍者ではないという点だ。
なぜかというと、本当の忍者を見つけてしまったら、それは殺られてしまうので、応募できなくなるから。

応募できたということは非忍者である。

それを踏まえたうえで、どのような投稿が予想できるかというと、以下のとおり。

1.鉄棒がうまい小学生
2.苗字が服部
3.双子
4.口を開けば「○○うじ」
5.もう、県立で専門学校がある



?「あなたの街のメランコリー大募集」

この企画を聞いた役所の人がメランコリーになる募集。
挙げられた数が多ければ多いほど、メランコリーは極端に増加するため、ほどほどがいい。

それを踏まえたうえで、どのような投稿が予想できるかというと、以下のとおり。

1.バリアフリーって書かれた看板が朽ちて倒れて歩道を塞ぐ
2.シャッターがうまく閉められなかったので、シャッター半開き商店街
3.立派な役所だなおい
4.つねづね市長(町長ほか)がやめたいと口にする
5.広報をよく読んでみたら、君主制をなしていることがわかった



?「あなたの街のアミューズメント大募集」

冒頭のと似ているが、これにどんなものが列挙されるかで、だいたいその街が分かるような気がする。

例えば、このようなのはどうだろうか。

1.西友
2.児童館
3.川原
4.春日部んち
5.校庭







メランコリーである。

相乗効果

とあるところで、こんな内容の看板を見た。

「自然を大切に たかりゆすりを見たら110番」

互いがより際立つ、なかなか練った内容である。


「たかりゆすり」というマイナスなイメージの言葉のおかげで、「自然を大切に」が映える。

一方、「自然を大切に」という人類一大テーマっぽいことの前での、あんまりな「たかりゆすり」のだめさ。


「みんなで自然を大切にしていこうってのに、そんななかで、たかりゆすり、だと!!」

たかりゆすりはだめなのである。




ただ実は、少しの間、僕は「たかり」という鳥かなんかがいて、それは珍しいから連絡しろという風にとってしまっていた。
そこは公園だったのである。


「たかりという小型のワシがこの森に生息しているのです」


少しありそうじゃないですか。

ちょっと発見を警察に通報する点がおかしいとは思ったが、そういう部署もあるかもしれないし。







「あ、あなたこの公園の人?」

「ちょっと。あの看板、わかりにくいですよ。」

「なんで自然どうこうと犯罪のことが同じ看板に書いてあるんですか。」

「わかりにくいおかげで、恥かいちゃいましたよ。」

「どうしてくれるんですか。」





110番である。

さてと。

ちょっとだけ「さてと」という言葉が面白くなってきた。

「さてと。掃除でもするか」

このさてと。

次に持ってくる文章によって、味わいが出てくる。




「さてと。ちゃんと縛るか」

今までちゃんと縛っていなかったのである。

そのため、何かが逃げてしまったかもしれない。
くずれてしまったかもしれない。

けど、「さてと」というくらいだから、それまで違うことをしていた。
それほど「縛る」ことは急を要さなかったのである。

逆に言うと、彼は勝利を確信しているのである。
その、縛っていたものがどうあがこうとも、自分の勝ちはゆるがないことを知っているのだ。

悪いやつだ。




「さてと。煮込むか」

これで気になるのが、「さてと、という前までやっていたことが、どうも煮込むことと競合する」というところだ。

一般的に煮込むのは、ある程度注意していれば、あとはほったらかしでいいはずである。
したがって、「さてと」の前から煮込んでいれば、「さてと」のころにはそこそこ煮込みが完了するはずだ。

例えば食材に対して何か下ごしらえが必要で、それが完了したときに「さてと」と口にしたのならば、気になることは解消する。

下ごしらえが完了したから、煮込むのだ。

もしこの「さてと」までの下ごしらえがない場合を考えると、場合によっては「捕まえて、煮込み」となり、少々味、見てくれが心配。




「さてと。ブーメランが戻ってくるまで、待つか」

すごく短気な人なのだろう。
投げた途端に戻ってきてもらわないと、落ち着かない。

だからあえて「待つ」と心落ち着かせようとしているのだ。

また、すごく素早い人という可能性もある。
ブーメランを投げた後、それが戻ってくる前までにあらかた仕事を終えてしまったのだ。

あとは、ブーメランというあだ名の人の帰りを待つというシチュエーションもある。

あだ名がブーメラン。
ハードボイルドである。




「さてと。そよ風のように」

この人、多分蒸発する。

ひどく退屈な一週間 7日目

オリジナリティというものを尊重し、極限までそれを遵守するとなると、いきなり僕らは四散してしまうわけだが、最初のひとりが四散すると次の人は八散しなければならず、なんだか大変だ。


そこまで行かなくとも、誰しも何かしらの面で自分固有なもの、独創は持っていたいと思うものだ。
要は、遵守の程度である。

程度をわきまえないと、独創性を求めるにあたっては「にっちもさっちも(!!)」いかなくなってしまう。

ある作家は、どのような格闘技が一番強いかを考えるとき、銃器の存在をアリとした。
あらゆる制限は結果的に不平等な律速を招くかもしれないことを示しているともいえるが、普通は「そんなあ」だ。

程度を考慮する必要がある。


また、独創の方向性を間違えると「問題の答えは8個だとわかっていたのですが、オリジナリティを出して「る個」にしました」とかなってしまい、それはオリジナリティというよりは、あまのじゃくである。


解法はともかく、数式の答えにオリジナリティは、ふつうない。
あるとしたら変数xの書き方くらいだ。


逆に性格生き様などはオリジナリティを発揮するにはいい舞台かもしれない。
※以下、「文学、映像作品」のそれについて。




さて、オリジナリティというものが失われて久しい、という旨の話は多い。
それはオリジナリティというものが内部要因というよりは外部要因に左右されるからという点が原因かもしれない。

作り手がいかに作品を無二だと考えていようが、受け手がそうでないと判断した場合、どうしてもそっちが重視されてしまうから。

A:
新しい言葉を作りました。骨と肉にダメージを与える意味「ボーンキュル」です。
B:
どういったことですか?。
A:
相手の腕か何かを持ってこう、きゅる!!ってねじることで、骨と肉の接点を断絶する動作のことです。
B:
何かどこかで見たことある気がするなぁ。
A:
骨付き肉などの調理にも役立ちます。
B:
ところで病院連れて行ってもらえます?。

この時点で「ボーンキュル」が新規のものだったとしても、もはやそれに独創性を見出すことは難しい(どこが文学どうこうであるかを見出すのも難しい)。
どこかで生まれちゃってたらしいことをBが示唆したためだ。

オリジナリティというものは非常に繊細で、曖昧なものに対してでさえも、たやすく侵されてしまうもの、らしい。



そんななので、人々は様々な方法でそれの取得を試みてきた。

例えば検索にひっかからない言葉を生み出した。
ありえない角度の視点を映像にした。
ストーリー構成を捨てた。


しかし残念ながら、これらの試みをもってしても「どこかで見たなあ」には、かなわない。

手術台の上でミシンと蝙蝠傘は出会ってしまっているのである。
全ての独創性というものが1枚の白紙の余白部分であったとするならば、もうその裏面も色塗りされているようなものだ。

もはやオリジナリティは、せいぜい「自分より優れたものへの嫉妬」としてくらいしか存在していないのかも知れない。

とはいえ、オリジナルだけど全然おもろない、なんか見たことあるけどすごくおもしろいというものも多い。
そこにはまた別の視点での独創性があったりするのだろう。

白紙の2枚目があったりするのだろうか、おもろい人。
スゴイヨネ。






さて、僕はまず1枚目を探しに。
このまま、何処へゆこうか。

ひどく退屈な一週間 6日目

地獄はいやだ。
地獄はいやだよ。

そう言ってゴネた。



ずいぶん昔だが、人生ゲーム的なやつで、天国に行くか地獄に行くかが最終結果となるボードゲームをやった。

それで地獄行きが濃厚となった僕は、ゴネたのである。


ボードには輝かしげな天国とおどろおどろしい地獄が描かれており、それぞれ妙な笑みを浮かべるエンジェル、おねしょさせることが所業のような悪魔が陣取っている。

当たり前かも知れないが、死ぬのは昔から大嫌いで。
そして天国やら地獄やらが死んだあとの世界であると認識していた。


ということでそもそも天国にも地獄にも行きたくはなかった。


しかし残念なことに、ゲームの目的は天国か地獄かだけ。
それならば、おねしょ悪魔がいる地獄よりも、まだ天国のほうがいいといったわけだ。






その頃僕がどんな天国地獄思想を持っていたのかは定かではないが、なんとなくこの判断は懸命と言えそう。

まず、地獄には知り合いがいなさそうであり、その点たいへんである。

そして知り合いを増やすにしても、少々難しいところがある。
声をかけても「おたく、やじるしみたいな尻尾ありますよ」みたいなことを言ってしまう。

友達も増えない。


ところがよく考えてみると、この傾向は天国にも当てはまりそうだ。

どうにも天国には、気軽に下ネタを言いあえる知り合いはいそうにない。

知り合い増やしでも「おたく、頭に円形蛍光灯ついてますよ」みたいなことを言ってしまう。

やはり友達は増えない。



地獄を恐れた幼少のころの僕に伝えたい。
天国にも地獄にも、知り合いはいないよと。

え?、と言われそうだが・・・。





それにしても、どうも天国地獄には知り合いがいないような気がするのは、なぜだ。
まだそこそこ若いから「これでやっとあの世のあいつに会える」みたいなシチュエーションが確立されていないからだろうか。
死んだことないからだろうか。




思うに、天国もしくは地獄に行く人は限られていると、知らないうちに考えているからではないだろうか。

一般的に、天国にはいい人、地獄には悪い人が行くものと考えられている。

世間はどうだろう。
とびぬけていい人、悪い人はあまりおらず、どっちつかずな人が多いような気がする。

・シュークリームをくれたが、盗品だった
・町内活動で球根を植える運動をしているが、万引きは見て見ぬふり
・口は悪いが 器量はそこそこ
・何んでも言えよ 俺で良きゃ


天国が特別な人のみが行けるところなのだとしたら、地獄もまたしかり、だ。
となると、その他大勢となる「どっちつかずな人」はどうなるのだろう。

その他大勢が地獄に行ったのなら、もはやそこは地獄とはなりえない。
西武線の延長線上にでもありそうなどこかみたいなものになる。
どっちつかずな人の多さで、悪い人割合が極端に低下するからだ。
そしてその傾向は、天国でも同じだろう。

おそらく「どっちつかずの人」は、天国にも地獄にもいけないのだ。


人間、死んだら天国に行けると思ったら大間違いだが、地獄に行くと思っていても大間違い。
どちらにも行かなかったその他大勢は、スタートとゴールを行ったり来たりするのだろう。

人は「過ちを繰り返す」というが、それは天国にも地獄にも行かなかったことなのか、行ったり来たりしていることなのか。


幼少期の僕や、分かる?。




え?。
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