署名

何かはわからないが、朝起きたら「らくがきというものは署名だったんだな」と妙に腑に落ちた。
とは言ってもそれまで「らくがきとは何か」を重考していたわけではなく、最近らくがき自体もしていない。

「小学校の教科書のなかに、らくがきがない」

そんな人はいないだろう。
いるとしたら、それは小学校ラスト間際で教科書を紛失、新しく買いそろえたことを忘れている。
もしくは「ノートにらくがき派」だ。

まだ、海のものとも山のものとも空のものとも分からぬ小学生の自分らが、自分の所有物であることを確認するが故の稚拙な行動。

そうとも考えれば、教科書あるいはノートに対するらくがきの署名は、納得もできるもの。
らくがきはおそらく、「所有すること」の意味を十分に理解したころ、徐々に消えていくものなのだろう。

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まず、らくがき時の筆圧が少しずつ低下してくる。
同時にえんぴつをにぎる力も弱くなってくる。
らくがき時の躁鬱っぷりが激しくなってくる。
らくがきをしようとすると、急に寒気がしてくる。
夜中、1階の居間でお父さんとお母さんがらくがきのことで言い争いをしている。
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以上、必要ないパートが終了した訳だが、もちろん「徐々に消えていく」というのは「その頻度が少なくなってくる」ということに他ならない。



しかしながら、幼少のころのらくがきを署名として考えると、それはそもそもちゃんと署名されているのか、と思えるようなエントロピーの大きさだ。

それは例えば「大ファンの俳優のサインをもらったところ、サインという概念を越えて、字が汚かった」というような感じに似ているだろうか。

この教科書、本当に僕の?。
大ファンの人、本当にこんな字なの?。


そう考えると、人が「絵のうまい人」に憧れる理由というのが分かる。

あれは完璧な署名なわけだ。
絵の内容がうまいことで、法、実質的に見ても遜色ないことになっている。


それで所有できるものは紙一枚ということなのかもしれない。
しかし、そもそも僕らは紙一枚だって所有しきれているのだろうかという気もする訳で、長くなったので言いたいことを簡潔にまとめると、僕は絵がへたなのです。

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