虫盛り

毎年書いているかも知れないのだが、近くに森林を利用した公園があり、そこに沿う形の小道をよく通る。

秋から冬にかけてあたり、この小道に「お椀一杯くらいの毛虫が山盛りになっている」ことがあるのだ。

少ない年は数回、多い年だと週に一度くらいは新しい「盛り」を見つける。
できたての「盛り」だと毛虫がみんなもぞもぞしていて、戦々恐々とする。


今年は多い。
昨日も、それまでなかった「盛り」ができていて、散り散りばらばらになっていた。

そう、彼らは越冬というよりは自殺行為。
たいがい「盛り」は自然にあるいは雨にうたれて毛虫が散乱。

誰一人助からない「盛り」行為なのであるのと同時に、僕が「虫盛り」と呼ぶそれは我が家の冬の季語にもなっているのである。




あれは一体何なのだろうか。
図鑑でも調べてみたがよくわからず、ごめんそれほどちゃんと調べてない。

ともかく「盛っている」。
翌日「死んで散らばっている」。


理由としてありそうなのは、やはり越冬だ。
何か、その小道には越冬に最適な何かがあったのだ。

それを何らかの形で知っている毛虫達は、それを利用とする。
しかしその「越冬に最適なもの」はもう利用する事ができなくなっており、ただ死ぬのを待つばかり。

それがこの惨劇の背景としてあるのではないか。


惜しむらくは、この繰り返される現象に生き証人に値する登場人物が現れない点である。

例えば、毛虫間で何かしらのコミュニケーションができたとしても。
毛虫達はみんな死んでしまうものだから、誰かが「あそこで盛ってみても越冬できないよ」と伝えることはできない。

虫盛りは自殺行為。
「越冬に最適なもの」は知っているが、虫盛りの惨劇を知らない毛虫達は、毎年小道に大挙するのだろう。



先日も、虫盛りのあとの惨状の上に、新しい虫盛りができていた。

惜しむらくは生き証人がいないこと。
本当に毛虫間コミュニケーションはないようだ。

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